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經濟學批評
 マルクスは「經濟學批評」の序文で簡潔にこの關係を言い表している。「人類の生活を決定するものは意識ではない、その反對に人類の社會的生活が彼等の意識を決定するのだ」と。彼に從えば人類の意識或は思想、所謂上部構造(文化)が人類の物質生活を決定するのではなくて、人類生活の物質的條件がそれ等を決定する、故に歴史の基礎は物質的であるというのである。
 更にマルクスは「哲學の貧困」にこれを詳説している。曰く「社會關係は密接に生産力と關係している。人類は新しき生産力を獲得することによりてその生産樣式を變化し、その生産樣式、生活資料を獲得する方法を變化することによりて、その一切の社會關係を變化する。風車と共に封建社會が存在し、蒸氣機關と共に資本家社會が生れる。
 物質的生産に一致せる社會關係を樹立した同じ人々は又その社會關係に一致せる、原理、觀念、範疇を生じさせる。
 かくの如く此等の觀念、これ等の範疇は、それによりて表現されている社會關係以上に永遠ではない。これ等は歴史的、一時的の産物なのだ。」
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軍記物
 勞資協調派、無抵抗主義者、人道主義者、等が一刀のもとに退治した唯物史觀の白髮首(しらがくび)とは何であるか? それは古代希臘(ギリシヤ)にさかえた唯物的形而上學である。ターレスやヘラクライトスの原始的唯物哲學は、その後幾度か時代の衣をつけて各時代に出現した。最近に於ける自然科學の發達はエネルギーの概念を發達せしめ、オストワルドの如きは物質概念を捨ててエネルギー一元論を唱えた。唯物的形而上學が舊衣をすてて十九世紀乃至(ないし)二十世紀の新衣と着更えたのである。
 ところが此等のメタフィジシァンは、宇宙の實體或は本體は何であるか? という問題を解こうとしたのである。而してこれに對しては希臘時代にはプラトーンやアリストテレスが、近世にはカントが、最近には新カント派が既にそれぞれ解決を與えている。今日では哲學は知識の問題に、科學は物理的世界の問題に自己の職能を局限して宇宙の究極的實體というような問題には觸れない。唯物史觀は多くの批難者がいうように形而上學ではなくて形而上學に對する死刑執行人の一人なのだ。
 近世の文化的教養を受け、精神主義の福音(ふくいん)に醉わされた人々は攻撃の相手を見失つた。尤(もつと)もまだ「綜合文化」というような怪物をかかげて「今の科學者は物質萬能で人生を解しない」などという批難をする者がある。併しながら科學は本來物的現象の學問である。物的現象を支配するものは物的法則のみである。科學者が物質の研究をしているから物質萬能だなどという批難は少くも地上では通用しないのである。
 唯物史觀によれば社會の一切の現象は進化する。唯物史觀の哲學は進化の哲學である。而してこの進化はヘーゲルがやつたように思惟や觀念の進化から説明することは出來ぬ。反對に思惟や觀念の進化は物質的進化の反映であり、物質的進化に對應する。物質的條件、即ち生産關係が行き詰つてその内部の革命的要素が活溌に發展する時には社會の意識形態は革命的となる。十八世紀や今日がそれである。物質的條件が完全に一階級の支配に統一されている時は社會の意識形態は平衡を保つて所謂(いわゆる)平和思想が瀰漫(びまん)する。十九世紀がそれである。日本では明治維新時代や源平時代や戰國時代が革命的時代であつた。元祿時代や明治時代が平和時代であつた。而してその都度文學もそれに對應して進化した。源平時代の軍記物には貴族に對する武士階級の革命的思想が現われ、維新前後の志士の言論には行き詰つた封建制度に對する新興階級の革命的思想が現われている。
 明治文學、革命的ブルジョア文學のチャンピオンであつた坪内逍遙の「小説神髓」には文學が勸善懲惡から獨立すべきことが強調してある。この場合勸善懲惡は絶對的意味をもつているものでない。善は封建制度の善であり、惡は封建制度の惡である。そこで封建制度が亡びてしまえばこの種の勸善懲惡はもう意味をなさぬ。「小説神髓」は文學に於ける封建社會の殘滓(ざんし)に死刑の宣告を與え、ブルジョア自由主義をこれに代えたものであつた。

アイデオロジスト
 唯物史觀は今や中間階級的アイデオロジストの批難の的となつている。しかし多くの新しい學説がそうであつた如く、而して唯物史觀が七十餘年前にそうであつた如く、甚だしい、誤解、曲解、通俗化、脱骨、中傷の犧牲となつている。
 唯物史觀の如き時代後(おく)れの淺薄な學説に從うのは學者文人の恥辱であるとして、「現代文化」の支持者達は雄々しくも唯物史觀征伐の十字軍を起して來た。そうして彼等はこん度も亦易々と唯物史觀の首級をあげて凱旋したのである。嗚呼(ああ)しかしながら、その首級は正眞まぎれもない唯物史觀のそれであつたか? 否それは彼等のイリュージョンであつた。彼等自身がこしらえた唯物史觀の模型であつた。どうしてそんなことが生じたか?

傳統的觀念
 人或は言うであろう。「勿論、宗教的、道徳的、哲學的、法律的の觀念は歴史の進歩と共に變化した。けれども宗教、道徳、哲學、政治、法律等は此の變化をうけずに生きのこつていた。」
「おまけに、凡(あら)ゆる社會状態に共通の、自由とか正義とかいう永久眞理がある。ところが共産主義は永久眞理を抹殺してしまう。それは凡(すべ)ての宗教、凡ての道徳を新しい基礎の上に構成する代りに全然廢してしまう。だから共産主義は過去の一切の歴史的經驗と矛盾するものである。」
 此の批難を要約するとどうなるか? 過去に於ける一切の社會の歴史は階級對立の發展であつた。異つた時代に異つた形態をとつてくる階級對立の歴史であつた。
 けれども階級對立が如何なる形態をとつたにもせよ、社會の一部が他の部分に搾取されたということは過去の全歴史に共通の一事實である。だから過去の時代の社會的意識が複雜多樣な相を示しているにも拘らず、それは或る共通の形態或は一般觀念の中に動いているのであつて、これは階級對立が全く消え去らない限りは完全になくならぬということは怪むに足りぬ。
 共産主義革命は傳統的財産關係との最も急激な分裂である、故にその發展と共に傳統的觀念との最も急激な分裂が起るのは不思議でない…………マルクス。
 マルクスは社會主義に對する小ブルジョア的批難に對して七十餘年前に以上の如く答えた。マルクスにとつては一定時代の法律や道徳や宗教等は多かれ少かれ支配階級の利益を包藏している階級的偏見に他ならなかつた。而してこの偏見から完全に解放される爲めには階級のない社會をまたねばならなかつた。文學は法律、道徳、宗教、哲學と共に社會的意識の一形態、一要素である。そこで一時代の文學は多かれ少なかれ支配階級の階級的偏見に感染することは些(いささか)の疑いもない。而してこの階級的偏見のよつて來るところは、階級對立を生ぜしめる社會的生産關係に他ならぬことも疑問の餘地がない。文學と唯物史觀との關係はそこに潜んでいる。ところが小ブルジョア的「思想家」達は昔も今もこの明白な事實を受け入れない。
2007年 猪年












2007年 猪年 はじまりました。









































猪のようにがんばる年にします。


































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